モオツァルト 再び

どうも思考があっちこっち飛びまわったままでマズいです(笑)

最近、ハイドシェックのモーツァルトの協奏曲を聴きながら仕事をすることが多いのですが、とくにここ数日は、バイトブリックのケーゲルのやつ(22番)ばっかりヘビー・ローテーションで聴いています。

カップリングの交響曲(40番)も同時に聴くことになる訳で、交響曲はぜんぜん聴かないのでCD自体ほとんど持っていないのですが、

で、それと、小林秀雄のモオツァルトを再び買ってきて読んでいます。

小林秀雄が「・・・乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていたとき、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。・・・」と書いている横に楽譜の一部分が載っているのですが、ここの部分は前に読んだときから頭に残ってた部分だったので、楽譜は読めないけど何となく気になって追いかけてみると、これは40番の4楽章のテーマなんですね。


↑なんか、珍しいものがあったので拝借しますw

またしても、自分の中では不思議なタイミングの邂逅を感じています。

で、こういう不思議なタイミングの一致は、ヴィヨンのことを調べているときによくあったことなんですけど、ここでまた、やっぱりかという感じでヴィヨンが登場しました(笑)

『モオツァルト』は『モオツァルト・無常という事』というタイトルの短編集の文庫本で読んでいるのですが、そのいちばん始めに『モオツァルト』があり、その次の『当麻』というタイトルの、世阿弥の能について書いてある短い文章の締めくくりが、

ああ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。

で終わっているのを発見してしまいました。

出た(笑)

もともと、小林秀雄のモオツァルトを読んだのは、ヴィヨンの「去年の雪」の詩についてあれこれ調べていた”ついでに”という感じだったのですが、まさにそのすぐ傍にそのまんまの形であったんですね〜。

いや、でも、当初からこれを発見していたら「・・・いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。」という言葉にまんまと引っかかっていたのかもしれません。

しかし、ここでのヴィヨンの用いられ方はとても「当たり前」な感じ(共通認識というか、一般教養としてこの詩を知っていて当たり前という雰囲気)なんですが、「仏文科」のステータスも地に堕ちて、「去年の雪」自体が「去年の雪」になりつつあるという立体的なルフラン(リフレイン)をまざまざと味わっている様な気分にもなります。

もともとこの本と出会ったときの「疾走する悲しみ」が失踪する悲しみ という残念な語呂合わせがまた頭を埋めます。

最大の救いは、4月になれば、ハイドシェックを聴きに行けることです(笑)

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