悪人正機とルサンチマン

バタバタとしてなかなかブログを更新出来ないときにありがちなんですけど、仕事をしつつ、気がつけば別の事柄をもちゃもちゃと頭の中で常に捏ね繰り回している感じになるんですが、最近のテーマがタイトルのニーチェと親鸞なんですけど、またいつものどうでもいい感じのグダグダです。毎々すみません(笑)

で、この悪人正機ルサンチマンを同時に考えていると、両者の立ち位置が、時には同じにも思えるし時には対峙する様にも見えるんですが、まぁ、それぞれが専門的な立場の人たちの中でさえ諸説ある様な事柄なので、全くの素人が要らんことを考えるのもおこがましいんですけど、ベートーヴェンやモーツァルトと同様に、全く個人的で人間臭い事柄として解釈しようとするとなかなか味わい深い気がしてくるわけです。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
(善人でさえ往生できるんだから、悪人は言うに及ばない…みたいな意味)

悪人正機はWikiの記述の冒頭にある様に「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」と解釈するのが一般的な様ですが、これを読むとき、読んでいる「自分」はおのずとそうであるないに関わらず「善人」の側から読んでしまうという様なこと、というか、「善人」>「悪人」を前提に読むと見誤る気がして、また、そこがニーチェ界隈の「善人=クソ」的なものと重なる気がして、結構のめり込んでしまうわけです。

第三者から見るとき、「親鸞聖人」と「藤井善信」の隔たりが大きいのも親鸞の特徴の様な気がするんですが、自分で書いたのが「愚禿鈔(愚かなハゲ(自称)が書いたもの)」に対して、弟子が、続出する異端に対して親鸞の正しいガイドラインを示したとされる「歎異抄(それは違うぞと呆れ嘆いて書いたもの)」のタイトルの温度差にも象徴的に見て取れる気がします。

ちなみに、「愚管抄」(愚かな管見(管を通して見た様な狭い了見)で書いた)の慈円は、若くして天台座主になり生まれも育ちもエエトコの出(関白藤原忠通と加賀局(藤原仲光の娘)の子で忠通の子・九条兼実の弟という、為政者一族のど真ん中)で、人から見てそういう感じの隔たりは全く無いわりにこんなタイトルで「史実」に残らない「事実」を残したのを読み取った感じの文章が小林秀雄の何かにあった気がするんですが、まぁ、それはおいといて、

親鸞の自称の「愚禿」は、直接的には松虫・鈴虫の一件で流罪になったことから(藤井善信の名前もそのとき)だそうですが、そう考えると尚のこと、親鸞自身の立ち位置は「悪人」側であったはずで、すこし紛らわしいですがこれを親鸞自身のルサンチマン的に解釈するならば、悪人正機の主役が「悪人」の救済などではなく「善人」とは何ぞ?というところに根ざしていることになりそうな気もします。

で、若干話題は逸れるんですが、最近うちの店の近くに短期決戦型の「おとしより」相手の健康食品か何かの○○商法的なお店がやってきて、ホストクラブの黒服のお兄さんみたいな人たちが無駄ににこやかに大声で車の誘導とかをしていて、「おとしより」たちもどこからとも無くワラワラと湧いてきて「爺婆ホイホイ」みたいで賑やかしいんですけど、たとえばこの人たちのうち、どっちが「善人」でどっちが「悪人」かを本質的に考え始めると、非常に悩ましいところではあります(笑)

悪人正機とルサンチマン」への2件のフィードバック

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