最近は縄文や弥生まで遡って人の営みを考えることが多いので、その時間の単位は100年とか1000年とかになるんですけど、そんなことを調べながら、人1人の考えることなんて、いくら科学技術が発達してあらゆるジャンルの情報が洪水の様に有り余っていても、人1人の一生分以上には蓄積されないのではないかという様なことも考えてしまいます。
たとえば、今日富山では恒例の花火大会が開催されるのですが、これはもともと富山空襲の慰霊の行事として開催される様になったのですが、Wikipediaによると、
のだそうで、多数の死者・負傷者と市街地の99.5%を焼失した大規模な空襲で、当時3歳だったうちの父は、50kmほど南の山間の辺鄙な田舎に住んでいたにもかかわらず、北の空が夜通し真っ赤に燃えていた…という様なことを何度か話してたのを耳にしました。
また、Wikiの別項には、
(太字:引用者)
(蛇足の追記:カーチス・ルメイは、東京大空襲、原爆投下などに関わっているにも関わらず、その後日本から勲一等旭日大綬章まで叙勲しているw)
などということもわざわざご丁寧に解説してあるのですが、本題に戻ると、今晩花火大会を見に行く人の何人が、少しでもこんなことを感じているのかな?という様なアレなんですけど、世界の平均寿命が約70歳となった現在、67年前のこんな出来事は、ちょうど人1人の一生分の過去ともいえるのですが、ボクも調べるまでは詳しくは知らなかったし、これは富山空襲に限りませんが、もし克明に記憶していてアクションを起こしている人がいたのだとしても、それは社会の論調からはほとんど忘れ去られてしまっている・・・
という様な長ったらしい1例なのですが、もっと身近にいえば、記憶に新しいはずの昨年の大震災ですらすでに社会的には記憶に新しいとばかりも言えないわけで、個人の社会的な記憶の儚さというか、調べものをしながらついそんなことを感じてしまっています。
p.s.
とはいいながら、それをつまみにして金子光晴—絶望の精神史や坂口安吾—堕落論
を読むのであって、先日読んだ小林秀雄と坂口安吾の対話
などは面白くて仕方ないし、また、本題に帰るところで白川静と梅原猛の対談
などもまことにもって面白く、儚いなりにも十分に楽しめるのでもありますが。