先日、ハイドシェックのモーツァルトがまとめてオークションに出ていたので、思わず勢いで落札してしまいました(笑)
最近はなかなかじっくりと音楽を聴く機会もなかったのですが、それ以来またときどき聴く様になっています。
先日の復刻版でもそうでしたが、近年の出来事や何やらで、23番の2楽章がやたら心に沁みます。
こんな風に感じている人もいるのではなかろうか?と、すこし検索してみたんですが、やっぱりちょっと違うみたいですね。
この曲が好きだと言う人は多い様ですが、どちらかというと、ロマンスというか、憂愁の響きがどうので癒されるのどうの・・・という、例のモーツァルト観の延長線上で話が展開されている様です。
嬰ヘ短調といえば、日本人にはおなじみの、都はるみ「北の宿から」ですもんね(笑)
23番は、例の、ハイドシェックに言わせるとフランス革命を予言した24番と、ほぼ時を同じくして書かれています。
心配になって(笑)、このCDのライナーにあるハイドシェック自身の楽曲解説を読むと…
比類ない音楽のために異例な調性が用いられている。独奏者がシチリアーノのリズムで苦しみを和らげた後、管弦楽が胸を刺す様な旋律を繰り広げる。モーツァルトはここで崇高さの絶頂に到達する。
コーダでは、ピッツィカートを伴奏に、あきらめの情が静かな絶望に達する。
ですよねー。もう、ほんと、涙が出ます。
ハイドシェックは裏切りません(笑)
手持ちのヴァンデルノート盤のライナーには、秋の想いだとか春への憧れだとか、「北の宿から」に加えて「北の国から」も入ってたりします(笑)
そして続く3楽章へは、ハイドシェックお得意の間髪入れない素早い転身でジェットコースターの様に繋がるのですが、これはモーツァルトお得意の不意打ちでもあるんですけど、本当は不意打ちじゃなくて、小林秀雄が言うところの疾走する悲しみな訳で、涙を追いつかせない目くらましなのですが、その目くらましにまんまとひっかかると、変幻自在な、癒しの・・・となるわけです。
そして、この乖離が、時代背景とも相まって、結果的にモーツァルトの”天才の離れ業”と捉えられている様な音楽を生み出しているのではなかろうかとも思います。
そこをド真ん中でがっつり捉えるハイドシェック。
崇高さの絶頂に到達する。・・・あきらめの情が静かな絶望に達する。
毎度のことですが、ハイドシェックに感謝。