(メモ 飛騨人DNA関連)

以前、飛騨と縄文人と蝦夷というのを書いていたんですが(日付を見ると、ちょうど去年の今日!)、たまたま最近のニュースで「飛騨人「父系は弥生人」 筑波大名誉教授DNA解析報告」というのがあったので、覚え書きのメモです。

DNA解析によって岐阜県飛騨地域に住む人(飛騨人)のルーツを研究している筑波大学名誉教授の住斉さん(70)=高山市下三之町=は、飛騨人の縄文人(古くから日本に住む人)と渡来系弥生人(2500~3000年前に大陸から日本に渡って来た人)の比率は、父親の系統をたどると弥生系が高いことが新たに分かった、と発表した。

ということで、

約7年前、明治・大正期に飛騨で生まれた人1100人分の口腔(こうくう)粘膜を採取し、母親の系統のルーツを知ることができるミトコンドリアのDNAを解析。これまでに734人分を解析した結果、縄文系と弥生系の比率が62対38となり、母親の系統は縄文系が多いことが分かった。

今回、徳島大学の佐藤陽一准教授(44)=高山市出身=の協力で、父親の系統のルーツが分かるY染色体のDNAを調べた。試料1100個のうち男性試料378人分を解析。縄文系と弥生系の比率は41対59となり、他の研究者が調べた日本人平均44対56と比べ、飛騨人は弥生系の割合が少し高かった。

と、ほとんど丸ごと記事のコピーになってしまってアレですけど、なかなかに興味深いです。

もう50年前にDNA解析の技術があれば、サンプル採取が江戸期にまで遡れてまた面白かったのではと思うのですが、こればかりはしょうがないですね。

ここ1〜2年、肉の名前の入ったメニューを注文しないとか、ゆる〜い感じで肉食をなるべく避けていたりするんですが(チャーシューメンは注文しませんが、普通のラーメンのチャーシューは食べます。という感じです。また、貰ったものは食べます。(笑))、この江戸期(明治維新)以前は基本的に日本では肉食は禁忌とされていたこととかがそのほんの一例ですが、縄文遺伝子もこのとき一気に淘汰が進んだと考えられなくもない気がします。

ルーツについて考えるとき、系統とかそういうことにはあまり興味が無いのですが、原始母系社会という考え方に興味があります。

現代の生活を取り巻くインフラはともかく、家族や家という単位以前の仕組みを考えると、家族や家を必要以上に絶対視する社会的な意味も見えてくるのですが、それはともかく、たとえば鯨や象の群れの単位はこの原始母系社会を想像させるものです。

鯨や象は子供が成長するまでの期間も他の動物と比べると人間に近いので、わりと共通項があるかもしれないと思うのですが、雌の血縁集団を母体として暮らしながら繁殖してゆくのが基本になります。雄は成長すると単独あるいは兄弟などの小集団で流動的に暮らします。

雄が1つの群れに定着すると、それはライオンのプライド(群れ)の様な形態になり、記事の雄の弥生系の割合の話に繋がります。(知らんけど)

人間が農耕によって得たものも多いのでしょうが、定住や安定と引き換えに失ったものも大きい気がします。

野外で肉を焼いてバーベキューとか、早期退職して田舎で家庭菜園とか、自然回帰w 自然回帰w


追記:

飛騨人の遺伝子の、この母系と父系の”ずれ”がなかなか頭から離れないので、何かの拍子にふと頭の中に登場して反芻しているのですが、最近読んだものの中に、たとえばメスティーソなどの様な人種も遺伝子が同様の分布になることを知り、なんとなく予感はしていたものの、ストロースの「悲しき熱帯」を地で行くというか、ボクの中のパンセ・ソバージュの血が騒ぐというか(笑)、「人類の進化」というやつに複雑な思いが募ります。

複雑な思いというのは、たとえば、従軍慰安婦問題についてはボクはあまり詳細を知りませんが、ここでいう飛騨人の女性に関して考えるとき、これは当然「強制連行」的なものではないはずで、ある程度の同調圧力は働くことがあったとしても、この遺伝淘汰的な結果は主として飛騨人女性の「自由選択」であったことが想像されるからです。

飛騨という、地理的に比較的遅くまで閉鎖的であった地域での結果だということを差し引いて考えると、およそ現代の日本人の成り立ちというものも想像できるわけで、そしてそれと同様なことが世界の至る所で一般的に起こっていることも想像できるわけで、「理性」の強さというか、、、

ずいぶん昔に読んだ植村直己の旅行記か何かに、エスキモーの女性は外部から来た旅行者などにたいして、かなり積極的に開放的になるという様なことを思い出したのですが、これは、娯楽が少ないどうのこうのとか、身持ちがどうのこうのという話じゃなくて、かなり閉鎖的な環境の集団は、集団内でおのずと血が濃くなることを本能的に避けるためにこの様なことが起きるのではないかと思うのですが、本文中の母系社会の根幹部分でもある様な気がします。

本能的な「理性」とでもいうか。

「母は強し」というわけですね。

エスキモーの女性の例は究極的な二択で、且つ、種の維持を考えたときも極限的な例だと言えますが、しかし、「人類の進化」を考える上で本質を表すものであることも想像してしまいます。

で、飛騨人の遺伝子を考えるときに何が複雑な思いなのかといえば、やはりここでもマキャベリ的な選択というものが、本能の中の時点ですでに見られるからというのがその理由なのですが、この続きはまたどこかで考えます。

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