脳が古典

ベートーヴェンやモーツァルトを中心に考えているとなかなか見えなかったものが、シューマンを軸にするとなんとなく見えてくる様なことがあったので、グダグダのついでに更にグダグダ書いてみたくなりました。

「斜陽」のコメ欄のピアニズム〜の下書き(序章)風にまとめてみます。

最近のマイブームで、外国語の単語の直訳というのがあるんですが(笑)、現代日本では外来語があたかも日本語の様に使われているので、基本的な意味すら見逃している場合も実は多かったりするんじゃないかという様なことがあってはっとします。

「クラシック」という語。

古いという様な意味でかなり広範な認識しか無いのですが、直訳すると「古典」になります。

クラシック音楽でいう「古典派」というのが「クラシック」の語源だと考えると、ちょっと面白いです。クラシック音楽を指して「クラシック」という言葉が使われ出したのは、きっと古典派の後のことなのでしょう。いや、実際にはどうかはわかりませんが、そう考えるとボクの中ではとても納得がいきます。

シューマンはショパンとともに、来年は生誕200周年を迎えるのだそうです。その翌年にはリスト、そしてその後ワーグナー、ベルリオーズ、ヨハン・シュトラウス・・・と続いていくのですが、シューマンの生まれた年にはベートーヴェンは40歳、モーツァルトがもし生きていれば54歳、また、ハイドンは前年に77歳で亡くなっています。

音楽の歴史の難しいことはぜんぜんわかりませんが、ボクの様なド素人が単純に音楽を聴くときに、このへんで線を1本引いておくと非常にわかりやすい気がします。

古典派 — ロマン派 — 印象派 とかいう時系列的な羅列ではなく、本流と派生みたいな捉え方です。派生というか「クラシック」を基盤にした時代時代の「コンテンポラリー」とでもいうか。

「派生」を直訳するとDerivation、昨年のサブ・プライムで話題になった「金融デリバティブ」というのがありましたが、その実像の無い「虚しさ」は共通するところがある・・・とか書いたら叱られるのでしょうが、音楽に限らず絵でもバレエでも、現代モノはそういう様な意味で苦手です。

シューマンが「子供の情景」や「ウィーンの謝肉祭の道化芝居」を書いた1830年代にはブラームスが誕生(1833〜)しますが、時を同じくしてウォール街の礎となるアンドリュー・カーネギー(1835〜)やジョン・ロックフェラー(1839〜)、J.P.モルガン(1837〜)等も生まれているのが、上のデリバティブに絡めると味わい深いです。

また、東の果ての日本では、坂本龍馬(1836〜)や大久保利通(1830〜)、土方歳三(1835〜)、福沢諭吉(1835〜)、岩崎弥太郎(1835〜)など、幕末の志士&現代日本の祖となる人たちがこの時期に相次いで生まれていることも大変興味深いところです。

今回ハイドシェックと話をしていて、若い頃の自分の録音を聴いたり、たまたま他の演奏家の出ているテレビを見ながら「too show」という言葉を使っていたのが印象的でした。

「show」という言葉の響きの中に偶然にも「商」という意味を含んでしまう日本語のいたずらに、少し驚きながら、ボクの口元は皮肉っぽく緩むのでした。

余談ですが、「クラシック」に線を引くときのその線上あたりに、ツェルニー(1791〜)やブルグミューラー(1806〜)、ハノン(1819〜)らが誕生しているのも、なんとも皮肉で予言めいている気がします。

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