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詩とか詩的とかいうこと

物事とか出来事とか、あるいはそれの意義だとかそれにまつわる人の感情だとかを、突き詰めようとして論理的に分解したり組み立てたりしていても、結局は分解したり組み立てたりすればするほど核心からは遠ざかってバラバラの破片かその寄せ集めになってしまうなどということを、最近はとくに強く実感しているのですが、それを巧いこと原形を保ったまま浮かび上がらせることが出来るのが、ひょっとしたら詩とか詩的とかいうことなのかなと、そんなことを考えてみたりしています。

ボクにとって、お題はまずこの「詩」として与えられるのが、最大の不幸でもあり、最大の幸福でもあるのか。と。

お題を分解する作業の中で、「詩」は、かつて「神の言葉」と呼ばれていたというのがある本の一節にあって、調べてみると、その「神」とはどうやらギリシア神話でいう「ミューズ」のことらしいのですが、この姉妹の女神たちの役割は、詩の他にも音楽や舞踏、文学、演劇などにわたっているそうなのですが、そういえば、前にハイドシェックが「音楽とバレエは仲良し〜〜」どうのこうのと言っていたのはこのことだったかもしれないななどと思いつつ、そういえば、「フェビウスは友達だ」とか「ゼフィア」がどうのこうのとか、基本的にギリシア神話そのものが詩的なので、ハイドシェックはそれを引用することが多いのかもしれないな…などと思ってみたり・・・こうやってまたバラバラの破片を増やしているんですけど(笑)、この「詩」的なものがやはり重要な気がしてきました。

散文詩というのがありますが、散文と詩は一見相容れないものの様な気がするんですけど、これは見方を変えれば、詩の中から詩的な要素だけを抽出した様なもので、技巧的なものを取り除いたという意味では定型詩よりもむしろ純度が高い気もしないでもなく、ランボーなんかはボクは散文のものの方がよほど身に迫るというのもあるし、音楽でいうと変奏曲の主題だけを聴きたい(変奏の繰り返しがウザいw)とかも思うので、ボク的には散文詩というジャンルは大いに結構なんですけど、もっといえば、荘子と儒なんかをくらべるにあたって「巧言令色鮮矣仁」などといっていること自体が巧言令色じゃね?とか思うので、福沢諭吉的な意味とは逆方向からの・・・というか、そもそも福沢諭吉の走りが儒的なものなんじゃね?とか思ったり。

しかし、孔子の出自はミューズ系ジャンルの家柄というのが引っかかって、完全に否定もし辛いのですが。

ミューズ系のジャンルというのは、実はもののけ姫でいうところの「非常民」チームの役割なのですが、これはだいたい洋の東西を問わず似たり寄ったりで、漂白民とか非差別民とかの受け持ちになりがちな様です。

ここら辺のところは、非常民=先住民(原型)→マキャベリアンに駆逐される の図で、ボクの中では今いちばん主要なテーマなのでもう少し咀嚼したいと思いますが、そうそう、たとえば、モーツァルトという苗字の由来をこのあいだたまたまWikipediaで見て驚いたというかやっぱりかというか、元来はモツハルト(MotzhartまたはMotzhardt)という綴りで、「みすぼらしい奴・卑しい奴」とか「湿地の藪」というほどの意味なんだそうで、この辺りとも繋げて考えたくなってしまいます。

そんな意味も含めて、小林秀雄の「モオツァルト」は、ボクにとっては散文詩だったのではないかと思う…というところに強引に不時着するのですが、impressionしたものがexpressionされているという意味でやはり音楽と兄弟の様なものなのでは・・・と、こんな取り留めのつかない話で某氏のコメ欄を汚すわけにもゆかず・・・という思いで書いてみたのですが、こんな文章はぜんぜん詩的でも論理的でもなくて毎度のことながらがっかりします(笑)

ひさしぶりに、もやもや日記の続き

久々の「もやもやカテ」(仮・笑)ですが、引き続き、生暖かく放置の方向でお願いします。

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前回(笑)までは、ヴィヨンの解釈 → 小林秀雄という流れで来ていたのですが、松岡正剛に言わせると「小林の哲学の70パーセントはベルクソンである」そうで、ベルクソン、ショーペンハウアー、ニーチェのペシミズム/ニヒリズム界隈を彷徨っているときに不幸にも大震災が起きたわけですが、こういう非常時には日常的には顕在化し難い社会的な仕組みやイデオロギーなどが大地震後の断層の露頭の様に露出する感じで、そういう意味では不謹慎ですがちょうど良いタイミングで現代社会の構造を断面から観察出来ている様に思います。

そして、普段からその傾向は強いですけど、この様なときには尚更、ニーチェのいうところの「ルサンチマン」(・・・主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう→Wiki )に囚われてしまってがんじがらめになりそうな雰囲気満点だったのですが、幸いそのタイミングでこの「ルサンチマン」という言葉そのものを意識していたからか、その様な自分の感情も傍観出来ていることは不幸中の幸いです。

といっても、ルサンチマン的要素は多分にあるので、あーだこーだ言いたくなることは山ほどあるんですけど、ま、それは置いておくとして、

ニーチェ的にはルサンチマンを超越するには「超人」になるしか無いそうなんですけど、普通に考えて、無理やろ(笑)

ニーチェ自身、「超人」になる前に「狂人」になってしまいました。(本人的には「超人」なんだと思いますが…)

行き止まりか。

と、思っているところに、京大の今中・小出コンビを発見して、未発見の新たな元素を見つけた様に新鮮な気分になりました。(口内炎の日記の下の方に追記で参照しています。)

5月23日(月)の参議院行政調査会では小出さんが話をされる様ですが、そのくらいのことでは世の中、ただちに影響はない(笑)と思います。

が、小出さんという存在が確認出来たこと、原子力ムラと呼ばれる界隈が有意に完全な(都合の良い)無菌状態でなかったことが確認出来たことは何より有意義だと思います。

形而上的な世界(あるいは、進化論的な世界というか科学的な世界)よりも現実世界に解が有りそうな光が見えてきました。
< ※覚え書き(追記):放射線を含めた量子論など、もともと実証主義の最先端であるはずのものは、なぜか多分に哲学…もっと言うと宗教的ですらあるという矛盾を感じないではいられないことも含める。ので、上の「現実世界」は実証的にという’縛り’(笑)を超えて、ほぼカオスに近いかも → これ、辺縁系だと思う。辺縁系の科学者発見! 科学者の善意とか良心的な…とか道徳的な…というルサンチマン(=新皮質、ネガティブ)で語っては間違う。人類のホメオスタシス。対極的には経済学で用いられるところのいわゆる「見えざる手」(実証的な意味wで。都合の良いブラックボックスという様な。)か? >

そして、その存在はボクの中ではモーツァルトの音楽にもつながるんですけど、まだうまく纏められないのでまたいつか、もやもやカテで(笑)

もやもや日記のつづき(笑)

最近、ほんと、寝る前に本を読みながら脳内で遊ぶしかなくて困ります(笑)

本を読む事やブログを書く事も含んで、「ことば」で表現できる事の不確かさというか頼り無さというか、そういう事を考えれば考える程「ことば」というのは最小限で良いという事になるんですが、最小限の「ことば」・・・究極的な普遍性みたいなものを探すために、かえってより多くの「ことば」を必要としたり生産し続けているのは、考えてみれば古代ギリシャの頃から脈々と続いているわけで、別にボクのせいじゃないみたいなので少しホッとしてるんですけど(笑)、自分の脳内だけでも「ことば」の不完全さを証明するためにどれほど多くの「ことば」を必要としなければならないのかという矛盾を考えはじめると、やっぱり「もやもや日記」になってしまいます。

で、そんな事も考えながら、いまだに『モオツァルト・無常という事』を読み終わっていないんですけど(笑)、そういう様な事も含めて、読むタイミングと考えている事がシンクロしまくってて、この本は本当に、かなり楽しく読んでいます。

出来事も微妙にシンクロしていて、たとえば、数日前に「宇宙帰りのサクラ異変…なぜか発芽・急成長」というニュースがあって、この桜の種が「中将姫の誓願桜」の種なんだそうですが、中将姫といえばこの本の中で「去年の雪」のフレーズが出てきた「当麻」の登場人物で、別の項「偶像崇拝」にも出て来るんですが、その「偶像崇拝」では、上の「ことば」の不確かさみたいな事がテーマになっていたりするのでまたグルグルします。

中将姫のことを少し調べていると當麻寺というのが出て来るんですが、今年はハイドシェックの奈良公演もあるしということで地図なども見ていると、このお寺は二上山という山の麓にあるんですが、二上山といえば富山にもあって、自動車の免許を取った頃に調子に乗って初めて走りに行ったら、見物コーナー的なところでガードレールに刺さって見物の方々に救助してもらってずいぶん恥ずかしい思をした記憶もあるんですが(笑)、二上山を走る道路は「万葉ライン」と呼ばれていて、その昔、大伴家持が越中国司として富山に滞在していた頃に、この二上山を詠んだ歌が万葉集にもおさめられているそうなんですが、その時代と中将姫の時代はまさにぴったり重なっていたりして、なんだか万葉集まで読みたくなってたりするので、もう手のほどこし様がないです(笑)

で、家持と小林秀雄を繋ぐと、

「見る人の、語りつぎてて、聞く人の鑑にせむを、惜(あたら)しき、清きその名ぞ」と家持は歌つた。(中略)萬葉の詩人は、自然の懷に抱かれてゐた樣に歴史の懷にもしつかりと抱かれてゐた。惜しと想へば全歴史は己れの掌中にあるのです。分析や類推によつて、過去の影を編み、未來の幻を描く樣な空想を知らなかつたのです。
小林秀雄「歴史と文學」より

ということになって、またグルっと戻って来るのが病み付きになりそうなくらいなんだかシンクロしてるんですけど、意味の分からない日記ばっかりでほんとにすみません。

p.s. まーた古本