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猿倉山から縄文時代を眺めてみる

最近は朝のけんの散歩はもっぱら猿倉山率が高いのですが、天気の良い日が続いていて、日によってはかなり遠くまでくっきりと見渡すことが出来ます。

この山の麓には直坂遺跡という石器時代〜縄文時代の遺跡があって、猿倉山の山道を散歩するときは、古代の人もこの辺りを歩き回って生活していたかもしれない…もしかしたら、イヌを連れて(笑)…などと思いながら歩くことが多いのですが、天気がよくて富山平野の見渡せるときなんかは、どんな景色が見えていたのかな…などと想像してしまいます。

ここの駐車場の脇に喫茶店があって、そこに置いてあった犬の本の表紙が「縄文時代のイヌの埴輪」だったのがこれまた面白い縁なので、ここから無理矢理話を広げたいと思います。

この猿倉山の、直坂遺跡とは違う方向の麓には姉倉比売(あねくらひめ)神社というのがあるのですが、富山市内には同名の神社がもうひとつあります。

ピアノ関係の人には馴染みの深い、芸術創造センターや桐朋学園富山キャンパスのすぐ脇にあるのですが、Wikiの姉倉比売神社のエピソードを見ると、芸創などの敷地は旧呉羽紡績工場跡地が活用されているということもまた感慨深いです。

姉倉比売神は能登の伊須流伎比古神(伊流岐比古神社の祭神)と夫婦であったが、伊須流伎比古は仙木山の能登比売(能登比売神社の祭神)と契りを交わしてしまった。怒った姉倉比売は船倉山の石を投げつくして能登比売を攻撃し、姉倉比売の妹の布倉比売もそれに加勢し、越国は大乱となった。出雲の大己貴命が越国に赴き、その調停により乱は鎮圧された。姉倉比売は混乱を引き起こした罰として、領地を没収されて呉羽小竹に流され、土地の女性たちに機織を教えるよう命じられたという。 Wiki:姉倉比売神社

で、その神社のまたすぐ脇には小竹貝塚という縄文時代の大きな遺構があるのですが、ここからは人骨が埋葬されていたすぐ傍に埋葬されていたイヌの骨が多数出土しているのだそうです。

上の姉倉比売のエピソードは、たぶんもう少し時代が下ってちょうど弥生時代くらいかなと想像するのですが、弥生時代とは紀元の前後300年ほどずつなのに対して縄文時代というのはその前の「万年」の単位で、その間には最終氷期縄文海進を経験しているわけで、富山平野の様子も上の写真の眺めとはずいぶん違っていたのではないかと思います。

そんなことを考えながら、文明の利器を使ってそのエピソードの登場人物の位置と上の写真を重ねて見当をつけてみたのですが、こうして見るとそのエピソードが手に取る様に見えて来る様な気がします。

姉倉比売のエピソードは、それより遥かに古い時代から直坂遺跡周辺の人たちと小竹貝塚周辺の人たちは、ひょっとしたら交流があったかもしれないと感じさせるエピソードでもあるように思います。

そして、その人たちはイヌと暮らし、イヌを人と同じ様に丁重に葬っていたと考えると、なんだかちょっと幸せになります(笑)


けん:「そんなむかしのこと、知らんがなw」


最近の朝の散歩仲間w

人の記憶

最近は縄文や弥生まで遡って人の営みを考えることが多いので、その時間の単位は100年とか1000年とかになるんですけど、そんなことを調べながら、人1人の考えることなんて、いくら科学技術が発達してあらゆるジャンルの情報が洪水の様に有り余っていても、人1人の一生分以上には蓄積されないのではないかという様なことも考えてしまいます。

たとえば、今日富山では恒例の花火大会が開催されるのですが、これはもともと富山空襲の慰霊の行事として開催される様になったのですが、Wikipediaによると、

広島・長崎の原子爆弾投下を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きかった。

のだそうで、多数の死者・負傷者と市街地の99.5%を焼失した大規模な空襲で、当時3歳だったうちの父は、50kmほど南の山間の辺鄙な田舎に住んでいたにもかかわらず、北の空が夜通し真っ赤に燃えていた…という様なことを何度か話してたのを耳にしました。

また、Wikiの別項には、

8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上 特 に 意 味 の な い 作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。

 (太字:引用者)
 (蛇足の追記:カーチス・ルメイは、東京大空襲、原爆投下などに関わっているにも関わらず、その後日本から勲一等旭日大綬章まで叙勲しているw)

などということもわざわざご丁寧に解説してあるのですが、本題に戻ると、今晩花火大会を見に行く人の何人が、少しでもこんなことを感じているのかな?という様なアレなんですけど、世界の平均寿命が約70歳となった現在、67年前のこんな出来事は、ちょうど人1人の一生分の過去ともいえるのですが、ボクも調べるまでは詳しくは知らなかったし、これは富山空襲に限りませんが、もし克明に記憶していてアクションを起こしている人がいたのだとしても、それは社会の論調からはほとんど忘れ去られてしまっている・・・

という様な長ったらしい1例なのですが、もっと身近にいえば、記憶に新しいはずの昨年の大震災ですらすでに社会的には記憶に新しいとばかりも言えないわけで、個人の社会的な記憶の儚さというか、調べものをしながらついそんなことを感じてしまっています。

p.s.
とはいいながら、それをつまみにして金子光晴—絶望の精神史坂口安吾—堕落論を読むのであって、先日読んだ小林秀雄と坂口安吾の対話などは面白くて仕方ないし、また、本題に帰るところで白川静と梅原猛の対談などもまことにもって面白く、儚いなりにも十分に楽しめるのでもありますが。

縄文〜弥生 と犬

縄文時代の遺跡からは犬は埋葬されたかたちで出土しますが、弥生時代の遺跡からは食べカスとして出土するそうです。

犬を飼った人ならわかると思いますが、同じ人間がこの様に変化するとは時系列が逆ならともかくなかなか考えにくいので、縄文時代から弥生時代は同じ文化が発展して変化したものではなく、他の文化との間で淘汰が起きたと考えます。

ただ、幸いなことにというか、その後の日本の歴史で犬食は近隣諸国などに比べても定着しなかった様ですので、弥生時代の例は進化/淘汰の過程で一時的に極端に現れた例なのかもしれませんが。

弥生時代というのは、紀元前300年頃から紀元300年頃までのことをいうのだそうですが、卑弥呼は〜248年頃と考えられているそうなので、ちょうどこの時代に重なります。

卑弥呼がいた邪馬台国の敵対国として、同じ日本の中に「狗奴国」というのがあったそうなのですが、この頃の詳細はなかなか明らかになりませんが、この「狗奴国」という名称がお気に入りです。

狗は犬の意味なので(笑)

この頃はまだ日本はひとつの国として統一されていたわけではなかったので、上記を考えると、これは縄文時代からの生き残り(土着民、ネイティブ・ジャパニーズ)の一部だったのではないかと考えます。

この弥生時代と前後して、たとえば、所変わって古代ギリシアには犬儒学派と呼ばれる思想を持った人たちがいた様ですが、無為自然で犬の様な生活を送ることを善しとした人たちだったそうです。

東洋でも似た様な話を聞いたことがあると思ったのが荘子なのですが、犬儒学派のディオゲネスが紀元前412年?〜紀元前323年、荘子が紀元前369年〜紀元前286年の頃の人だと推定されている様で、おおよそですがこの弥生時代に重なりそうな年代だということがわかります。(犬儒学派の儒に「儒学」の意味は無く、この日本語が出来た当時の「哲学」とか「学問」とかくらいの意味にすぎないと考えます。ボクの中では儒はマキャベリ的アレの性格が強いと思われるので蛇足の説明を付け加えておきます。)

なので、少し強引ですが、内容的には当たらずとも遠からずな感じで、この様な進化/淘汰はひょっとしたら世界的にもほぼ同じ様なタイミングで進行していたのかもしれないな…などと思ってしまいます。

先日からぐだぐだ言っているマキャベリ的知性仮説という名称は今ひとつ核心を突いていないのでわかり難いのですが、要は、権謀術数(権力・謀略・術策・計算)の能力が社会的な適応能力(進化/淘汰)に大きな影響を与えたとする説です。

歴史を振り返るという作業において、自分の立ち位置はこの進化/淘汰の過程の末端にいるわけで、自分が今ここにいるということはそれまでにこの様な適応を繰り返した結果だということを考えると慄然とせざるを得ないのですが、それを背負って生まれてきたことを無視することは出来ないのが、人間の「業」というものなのでしょうか。