辺縁系」タグアーカイブ

(読書の予定)

書いておかないと、自分が何をしているのか分からなくなるので書いておきます。

ブログに書いておくと、一応は誰でも見れる状態というプレッシャーからか、それだけでけっこう頭の中で熟成(発酵?)する気がするので。
ということで、いつものことですが完全放置の方向でよろしくお願いします(笑)

このあいだの「マキャベリ的知性と心の理論の進化論」は、やはり、「辺縁系的なもの」に対する「新皮質的なもの」についての考証の意味で非常に興味深いのですが、Wikipediaの「マキャベリ的知性仮説」の項にある様に、

人間の持つ高度な知的能力は、〜〜 社会的・権謀術数的な駆け引きの能力が、個体の適応度に大きな影響を与えた・・・

という”進化”論は「やっぱりね〜w」という感じが満載で、ボクが社会を眺める上で背骨ともなり得る考え方だということで、とてもお気に入りです(笑)

で、背骨を補強する意味で(笑)、「石器時代の経済学」という本と「パンドラの種」という本を同時に読んでいるのですが、脳科学的なアプローチに加えて、文化人類学的なところと遺伝子工学的なところからも裏打ち出来る感じで、この同時進行は今のところたいへん面白いのですが、これらを読み終わったときのことを考えて、ちょっと待てよ…ということで、どうしてもその前に、例のレヴィ・ストロースのパンセ・ソバージュ(「野生の思考」)を読んでおいた方が良さそうな気がしてきて(上の本を読んだ後からこれを読んで、構造主義の余韻を残したくないが、何となく避けては通れない予感がするという様な意味で。)、いや待て、これを読むのなら「悲しき熱帯」はマストな気がするし、その場合、順番はどっちだろ?という、現在そんな感じなのですが、とりあえずは「ドミノ倒しの最初のピース=農耕の開始」という辺をまず固めたいと思っています。



「インディアンの言葉」より

もやもやカテの続編の前段階

この日記は、先日コメントいただいた免努苦齋さんへの言い訳なんですけど(笑)、最近は生活のサイクルに読書の時間がなかなか取り入れられなくて、思う様にもやもや出来ずにもやもやしています(笑)

ご紹介いただいた吉田健一も何冊か積ん読したりしてるんですけど、コモン・ロー的な事柄を抽象的に捉えようとすればするほど時代を逆行して、明治維新や江戸時代を軽く通り越して旧石器時代まで遡らざるを得ないことになってしまうので、手に負えないというのが正直なところです。

いつもけんと遊びに行く猿倉山の麓には直坂遺跡というのがあって、県内でも古い方の遺跡らしく旧石器時代・縄文時代の集落跡なんだそうですが、山道を歩きながら当時に思いを馳せてみたりするのが精一杯です(笑)

そうこうしているうちに、あらたに「マキャベリ的知性と心の理論の進化論」というのを見つけてしまい、これは例の辺縁系ー新皮質的な考え方のほぼど真ん中なんじゃないか?ということで、泣く泣く大枚をはたいてまた積ん読を増やしてしまっているのですが、

帯を見ているだけでもど真ん中っぽさが気に入ってます(笑)

で、そうこうしているうちに、免努苦齋さんご本人の著書らしきものも見つけてしまいましたので、同様に積ん読(笑)

という様な案配で、ボクも生きてるうちには無理かも(笑)、というご報告でした。

ひさしぶりに、もやもや日記の続き

久々の「もやもやカテ」(仮・笑)ですが、引き続き、生暖かく放置の方向でお願いします。

■■■■■■■■■■

前回(笑)までは、ヴィヨンの解釈 → 小林秀雄という流れで来ていたのですが、松岡正剛に言わせると「小林の哲学の70パーセントはベルクソンである」そうで、ベルクソン、ショーペンハウアー、ニーチェのペシミズム/ニヒリズム界隈を彷徨っているときに不幸にも大震災が起きたわけですが、こういう非常時には日常的には顕在化し難い社会的な仕組みやイデオロギーなどが大地震後の断層の露頭の様に露出する感じで、そういう意味では不謹慎ですがちょうど良いタイミングで現代社会の構造を断面から観察出来ている様に思います。

そして、普段からその傾向は強いですけど、この様なときには尚更、ニーチェのいうところの「ルサンチマン」(・・・主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう→Wiki )に囚われてしまってがんじがらめになりそうな雰囲気満点だったのですが、幸いそのタイミングでこの「ルサンチマン」という言葉そのものを意識していたからか、その様な自分の感情も傍観出来ていることは不幸中の幸いです。

といっても、ルサンチマン的要素は多分にあるので、あーだこーだ言いたくなることは山ほどあるんですけど、ま、それは置いておくとして、

ニーチェ的にはルサンチマンを超越するには「超人」になるしか無いそうなんですけど、普通に考えて、無理やろ(笑)

ニーチェ自身、「超人」になる前に「狂人」になってしまいました。(本人的には「超人」なんだと思いますが…)

行き止まりか。

と、思っているところに、京大の今中・小出コンビを発見して、未発見の新たな元素を見つけた様に新鮮な気分になりました。(口内炎の日記の下の方に追記で参照しています。)

5月23日(月)の参議院行政調査会では小出さんが話をされる様ですが、そのくらいのことでは世の中、ただちに影響はない(笑)と思います。

が、小出さんという存在が確認出来たこと、原子力ムラと呼ばれる界隈が有意に完全な(都合の良い)無菌状態でなかったことが確認出来たことは何より有意義だと思います。

形而上的な世界(あるいは、進化論的な世界というか科学的な世界)よりも現実世界に解が有りそうな光が見えてきました。
< ※覚え書き(追記):放射線を含めた量子論など、もともと実証主義の最先端であるはずのものは、なぜか多分に哲学…もっと言うと宗教的ですらあるという矛盾を感じないではいられないことも含める。ので、上の「現実世界」は実証的にという’縛り’(笑)を超えて、ほぼカオスに近いかも → これ、辺縁系だと思う。辺縁系の科学者発見! 科学者の善意とか良心的な…とか道徳的な…というルサンチマン(=新皮質、ネガティブ)で語っては間違う。人類のホメオスタシス。対極的には経済学で用いられるところのいわゆる「見えざる手」(実証的な意味wで。都合の良いブラックボックスという様な。)か? >

そして、その存在はボクの中ではモーツァルトの音楽にもつながるんですけど、まだうまく纏められないのでまたいつか、もやもやカテで(笑)