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(メモ)

毎日寝る前に数ページずつ読んでいた加藤典洋の「日本人の自画像」をようやく読み終わったところなのですが、最近にわかに領土問題が緊張状態になったり、安倍自民に脚光が当たりつつあったり、また、維新がどうのこうのとか、幕末チックな感じで”にわか”ナショナリズムが持ち上がってきそうな雰囲気になってきている気もするのですが、ちょうどいいと思い上の本のひと口感想を書いておきます。

この本には荻生徂徠や本居宣長、柳田國男、小林秀雄、吉本隆明などが登場するのですが、

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と、ここまで書いて別の仕事をしていたらブログを書く意欲が無くなってしまったので(笑)、本の中で引用されている玉勝間の一節を覚え書きにコピペしておきます。

がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古への意はしりがたく、古へのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そも—(くの字点)道は、もと学問をして知ることにはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたれば、今は学問せざれば、道をえしらざるにこそあれ、

(※
「漢」に対するのは「和」でなく、「漢」は理性や合理主義の「理」に相当するのであって、これはカントの「○○理性批判」以降の西洋哲学の流れにも通じる気がするが、「真心」もまた如来蔵などに通じるものである気がするし、自分としてはヴィヨンの「去年の雪」とも重ねたいし、けっきょく辺縁系なんよね。とか思いつつ、つぎはレヴィ・ストロースの「野生の思考」は飛ばして「悲しき熱帯」からミシェル・フーコー(「が書いたもの」はめんどくさいので「について書いたもの」)を読む。構造主義とかポスト構造主義とかいう<カテゴリー>の耳ざわりにはあいかわらずうんざりするが、どうもジャンル的にはそっちに向かってしまう。)

蛇足のまとめとしては、「日本」なんていうものを突き詰めて探していても見つかるはずはないわけで、”古”の民である縄文時代や石器時代の人に「日本はどこですか?」「となりの国はどこですか?」と聞いてみればわかるが、ナショナリズムなどというものも、どこかのマニフェストみたいに必要に応じていつでもいかようにでも作ることが出来るし、正反対のところに訂正することも容易なんだろなというようなアレです。

(追記)
今でいうと、「新自由主義」vs「国益」という構図はどちらもアレ(「真心」がない)という様な。
「真心」は動物(辺縁系)を見ていればいちばんわかりやすいのに。
参考:動物が動物を救う。動物たちによる7つの救出劇

中世

ハイドシェックが曲を付けたヴィヨンの「去年の雪」の詩から始まったグダグダはいろいろな方面に枝分かれしていって、最近では日本の中世史界隈をうろうろしてたりしたんですが、統治者側ではない方から覗いていると不思議とホイジンガの「中世の秋」的なヨーロッパの中世とかなり符合している様な気がして、これは、13世紀のモンゴル帝国を考えるとあながち考えられない話でもない…とひとりで納得して遊んでたんですけど、ひさびさに原点の「去年の雪」の詩をじっくりと考えようと登場人物など背景をいろいろ調べ直そうとしていると、ことごとくまさにぴったりな感じの本があって、著者を見るとホイジンガの「中世の秋」の訳者堀越孝一さんの本だったので、これはということでさっそく注文しました。

この人の本は、前にも書いたかもしれませんが「遊びをせんとや生まれけむ…」の梁塵秘抄をテーマにした「わが梁塵秘抄」とか、そのまんま「わがヴィヨン」とか、かなり視線が重なっていてうれしくなって以前から5〜6冊は入手していたのですが、今回注文した「人間のヨーロッパ中世」はど真ん中なのに何故気付かなかったのかと思いながら届いた本を開いてみると、なんと今年の6月に出たばかりの本でした。

リアルタイムでこういう本が書かれているということ自体が、ボクにとってはとても嬉しいのですが、堀越さんはハイドシェックより3つ年上で、書かれている内容も、ボクが知りたいことが直接ポンポンとまとまって書かれているのではなくて、ハイドシェックとのおしゃべりの様にそのときはなんだかよく分かんないけど(笑)あとでハッ!とする感じの、そんなこともあって、新しくこの本を読めることがとても嬉しいです。

どこかに籠ってじっくりと読みたい本ですが、だいたい、こういうことを書いているときはいっぱいいっぱいなとき…試験中になると部屋を片付ける様なアレで、ほんと、無人島にでも行きたいです(国境近辺じゃないとこで・笑)

ヴィヨン、園子温

前の日記に続いてまたヴィヨンのネタなんですけど、鮮度ということではやっぱりSNSとかがあれなんで、ごく稀にツイッターとかで「ヴィヨン」を検索したりしてもみるのですが、前回(1〜2年前?)の検索結果は「ヴィヨンの妻」が圧倒的だったんですが、今回は「ヒミズ」というのがたくさん出てきたわけです。

主人公(?)の女の子がヴィヨンの詩集を朗読するシーンがあるそうなんですけど、それより、この「ヒミズ」のトレーラー()を最近どこかで偶然にも見ていたんです。

どこだったか、というか、なぜそこに辿り着いたか、忘れてしまってほんとに悔しいのですが、監督の園子温経由で来たことは何となく憶えています。(まーたsionか…とか思った記憶があります。)

たぶん、最近の例の「積ん読」の中にブコウスキーが入っているんですが、訳者も含めて、日本での受け入れられ方(本国でもそうかもしれませんが)が、なんか、腑に落ちない感じがするわけです。

ヴィヨンにしろブコウスキーにしろ、少し前に流行った「ちょいワル親父」の延長線上で捉えられてしまっているというか、それは太宰の「ヴィヨンの妻」の時点で既にボクはそんな風に思ってしまうのですが(なので、ヴィヨンの妻ではなく斜陽を読んだ)、そんなことをあれこれ考えながら辿り着いたのかもしれません。

ブコウスキーの画像を検索すると、そんな(無駄にかっこいい)写真ばっかりで、ちょっとがっかりします(笑)

(↓こっちの方がよっぽど説得力があります・笑)

前の日記の後で届いた本に、そこに出てきたホイジンガの「中世の秋」の訳者が書いた「わがヴィヨン」という本があるのですが、この人は、前に書いた「遊びをせんとや生まれけん・・・」の梁塵秘抄についても「わが梁塵秘抄」(笑)という本があったり、今もこの人の、ヴィヨンと同時代の「パリ一市民の日記」を題材に書いている「パンとぶどう酒の中世」というのを読んでいるのですが、そういう、等身大の目線で書いてありそうな予感がしていて、無駄にかっこ良くなさそうで楽しみにしているところです。