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もやもや日記のつづき(笑)

最近、ほんと、寝る前に本を読みながら脳内で遊ぶしかなくて困ります(笑)

本を読む事やブログを書く事も含んで、「ことば」で表現できる事の不確かさというか頼り無さというか、そういう事を考えれば考える程「ことば」というのは最小限で良いという事になるんですが、最小限の「ことば」・・・究極的な普遍性みたいなものを探すために、かえってより多くの「ことば」を必要としたり生産し続けているのは、考えてみれば古代ギリシャの頃から脈々と続いているわけで、別にボクのせいじゃないみたいなので少しホッとしてるんですけど(笑)、自分の脳内だけでも「ことば」の不完全さを証明するためにどれほど多くの「ことば」を必要としなければならないのかという矛盾を考えはじめると、やっぱり「もやもや日記」になってしまいます。

で、そんな事も考えながら、いまだに『モオツァルト・無常という事』を読み終わっていないんですけど(笑)、そういう様な事も含めて、読むタイミングと考えている事がシンクロしまくってて、この本は本当に、かなり楽しく読んでいます。

出来事も微妙にシンクロしていて、たとえば、数日前に「宇宙帰りのサクラ異変…なぜか発芽・急成長」というニュースがあって、この桜の種が「中将姫の誓願桜」の種なんだそうですが、中将姫といえばこの本の中で「去年の雪」のフレーズが出てきた「当麻」の登場人物で、別の項「偶像崇拝」にも出て来るんですが、その「偶像崇拝」では、上の「ことば」の不確かさみたいな事がテーマになっていたりするのでまたグルグルします。

中将姫のことを少し調べていると當麻寺というのが出て来るんですが、今年はハイドシェックの奈良公演もあるしということで地図なども見ていると、このお寺は二上山という山の麓にあるんですが、二上山といえば富山にもあって、自動車の免許を取った頃に調子に乗って初めて走りに行ったら、見物コーナー的なところでガードレールに刺さって見物の方々に救助してもらってずいぶん恥ずかしい思をした記憶もあるんですが(笑)、二上山を走る道路は「万葉ライン」と呼ばれていて、その昔、大伴家持が越中国司として富山に滞在していた頃に、この二上山を詠んだ歌が万葉集にもおさめられているそうなんですが、その時代と中将姫の時代はまさにぴったり重なっていたりして、なんだか万葉集まで読みたくなってたりするので、もう手のほどこし様がないです(笑)

で、家持と小林秀雄を繋ぐと、

「見る人の、語りつぎてて、聞く人の鑑にせむを、惜(あたら)しき、清きその名ぞ」と家持は歌つた。(中略)萬葉の詩人は、自然の懷に抱かれてゐた樣に歴史の懷にもしつかりと抱かれてゐた。惜しと想へば全歴史は己れの掌中にあるのです。分析や類推によつて、過去の影を編み、未來の幻を描く樣な空想を知らなかつたのです。
小林秀雄「歴史と文學」より

ということになって、またグルっと戻って来るのが病み付きになりそうなくらいなんだかシンクロしてるんですけど、意味の分からない日記ばっかりでほんとにすみません。

p.s. まーた古本