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啓蒙思想と陰翳礼賛

「古典」の時代背景を考える のシリーズです。

引続き、生暖かく放置しておいて下さい(笑)

いわゆる、ここでいうところの「文化」の発生源を辿ると、18世紀のフランス・ブルボン家のヴェルサイユ宮殿とハプスブルグ家のシェーンブルン宮殿あたりに収束してゆくのですが、その牽引力となっているのが「啓蒙思想」というやつです。

啓蒙とは「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」という意味で、聖書や神学といった従来の権威を離れて、理性(悟性)による「知」によって世界を把握しようとすることだそうですが、それによって覚醒した民衆がフランス革命を起こしたり、ゆくゆくは帝政そのものを廃止することになったのは何とも皮肉な結果です。

この「啓蒙思想」という言葉の意味の正反対のところに、以前ハイドシェックが雑誌のインタビューで、モーツァルトの魅力についての質問で引き合いに出した谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」があるのが、とても興味深いです。

陰翳礼賛は、フランス語では L’éloge de l’ombre(英語では In Praise of Shadows)と訳されていて、日本語のニュアンスよりももっと直接的(日本語の「陰影」は(光に対しての)繊細な変化の度合いを表すことも含んでいると思う)な気がしますが、言わんとしていることは大変共感するところであったので、この引用は強く記憶に残っています。(この引用を元にして、かつて編集した短い動画 … ハイドシェックがバスティーユの革命記念柱を背景に、子供用の滑り台がギロチンに見えると説明してくれています。BGMはモーツァルトの某協奏曲の録音w。ビデオの終わり辺りで平和な感じの曲が一瞬「翳る」という設定(笑))

先日の、小林秀雄の「疾走する悲しみ」と同じ意味です。

小林秀雄の「モオツァルト」の中で、モーツァルトの母親が亡くなったときの逸話として、母が亡くなったときに友人と父親に宛てた2通の手紙を書き、友人には悲嘆にくれた自分のありのままの様子を、そして、父親には父親を悲しませまいとして、病気が悪化したが最悪は免れるのではないかと楽観し、関係の無い他愛のない事柄をペラペラと面白げに語っている内容だったということが書いてありましたが、それはそのままモーツァルトの音楽に当てはまるし、作曲家としての人生にも当てはまるのだと思います。

前の日記の「戴冠式」でも、自分の生活の糧…というより自分の存在意義すら失いかけている状況で、意気揚々と華々しく演奏するモーツァルトの様子が目に浮かんで愛しいのですが、時折垣間見える「翳」を、小林氏やハイドシェックは見逃していない気がするのです。

そして、それをいかにも「陰影の中にこそ美は存在するのだ!」と声高に叫ぶ耽美主義のデカダンスはこの次の世代以降になる訳で、そういう意味でもこの辺に心惹かれるのかなとも思います。

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本日のグルグル

まだ「古典」あたりを彷徨っています(笑)

今日もまとまらないので覚え書きです。

生暖かく放置しておいて下さい(笑)

昨日発見した「統治者単位で見るヨーロッパの歴史」がかなりお気に入りで、ブルボン家とハプスブルグ家を行ったり来たりしています。

基本的なアンカーは「モーツァルト」「ベートーヴェン」、そして「ハイドシェック」です。

ここに、このあいだの「ヴィヨンの詩」を少しふりかけます。

ジャンヌ・ダルクが天命を受けてシャルル7世を戴冠させてフランス国王の正統性を守ったのがハイドシェック所縁の地「ランス」です。

このあいだ、ハイドシェックのご先祖様がヴェストファーレンからランスに移り住んだ際、Florenz-Ludwig から Florens-Louis に改名した云々と書きましたが、その際に「ルートヴィヒ」が「ルイ」に相当するのだと初めて知ったのですが、それをもっと遡ると Ludwig や Louis は Clovis に相当するのだそうで、クロヴィス1世という人がランスで戴冠してから後、歴代のフランスの王様はランスで戴冠することになったそうです。

戴冠といえば、今年のハイドシェックのツアーの演目…モーツァルトの協奏曲「戴冠式」は神聖ローマ皇帝レオポルト2世の戴冠式に合わせたためこう呼ばれるようになったのだそうですが、これはモーツァルトの庇護者でもあったヨーゼフ2世の崩御の結果、弟が跡を継いだための戴冠という意味もあって、昨日の日記にも通じますが、レオポルト2世は音楽にあまり興味がなかった様で、実際、この戴冠式のためのモーツァルトのコンサートも結果的には成功ではなかった様です。

また、この兄弟は女帝マリア・テレジアとフランツ・ヨーゼフとの間の子供で、他の兄弟にはマリー・アントワネットや「ふとっちょのマクシィ」と呼ばれたケルン大司教(←ベートーヴェンのパトロン)等もいます。

マリー・アントワネットといえば、ハイドシェックの奥さんターニャさんの結婚前の名前(←しかもヴェルサイユ出身w)と、前にもどこかに書いた様な記憶もあるのですが、ヴィヨンの時代以前の人であれば「昔日の美姫・・・」の詩の中にきっと名前を連ねていたであろうと思われます。

日本で最も有名なフランスの歴史上の女性…といえば、ジャンヌ・ダルクとマリー・アントワネットではないかと思うのですが、2人に共通することとして、その最期が公の前で処刑されたという、なんとも悲しい共通項を発見してドキっとしたんですが、さらに、(フランス語に詳しくないことが幸いしてか)マリー・アントワネットの名前の中にジャンヌがいることを発見して、なんかまた、変な暗示の様なものを感じたのでした。

マリー・アントワネットの本名(フランス語)
Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d’Autriche

(本当は Lorraine d’Autriche で Habsburg-Lothringen という家名に相当するので、ドイツ語だとMaria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringen になって、部分的にも「ロレーヌのジャンヌ」という意味の並びにはならないんですけど)

で、こういう様な、言葉で理論的に説明は出来ないけども、実際にちょっと核心を突いた様な「ことば遊び」が、モーツァルトの音楽やハイドシェックの演奏にはある様な気がするんですが・・・というあたりで本日は着地しておきます(笑)

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古典のつづき

考えがまとまらないので、覚え書きとして。

ヨーロッパの文化の歴史を調べようと思って、民族的なルーツから探ろうとしてもなかなか思う様にはかどらなかったのですが、統治者単位で追っかけると意外にあっさりと歴史を辿ることができることに気がつきました。

歴史の勉強をもう少しまじめにやっておけば良かったです(笑)

で、クラシックの「古典」が生まれた時代の背景は、モーツァルトとマリー・アントワネットが1歳違いだったことが象徴している様に、君主制の時代が終盤を迎えようとしている頃だった様です。

この頃までの音楽は宮廷の庇護下におかれていて、いわゆるパトロンが存在していましたが、これも横軸で見ると、あちこちに均等に散在しているのではなく、結構限られた範囲内で・・・啓蒙専制君主と呼ばれる人(フリードリヒ2世、ヨーゼフ2世など)やその周囲、あるいはエステルハージ家などの絶大な財力を持つ貴族などの中で、しかも音楽などに興味を持った君主や当主の世代に限定されていたりするので、かなり特殊な条件だったのではないかと思うのです。

啓蒙専制君主という名称には、なんとなくその言葉のうちに矛盾を孕んでいる気もして、それがまたこの時代を象徴している様にも思えるのですが、時代の転換期に、絶対君主制と啓蒙思想をポジティブな意味で両立させようとしている様子が見て取れます。

柳田邦男は、文献にばかり頼って歴史を知ろうとすると、何もなかったときのことは文献には残らないから、戦争とか災害ばかりがあった様になってしまうという様なことを言っていましたが、年表の行間を無理矢理読むと、君主制の権力と富の集積と共和制的な思想が混在している、かなり特殊な時代の空気があるのかな?と。

現代にも、近くの国に○○民主主義人民共和国という名前で実質的には君主制のとこがありますが(笑)、もしかしたら大作曲家が生まれるかも?…どうでもいいけど。

なので、この「古典」の発生は、進化論的なアレではなくて、かなり特殊な条件が重なった偶然の産物の様な気がします。

ちなみに、進化論のダーウィンもこの「古典とそれ以降の狭間」頃(1809年)に生まれていますが、それ以降、唯物論や経済学や共産主義などに間接的だけどつながっていくので、いろんな意味でやっぱりこの辺に線を1本引いとかなくてはならない場所なんだと思います。

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