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「孤高」の補足

先日の「孤高の巨匠」というタイトルの日記の中で引用した「孤高」の定義が、どうもよそよそしい感じで今ひとつ腑に落ちないので、言葉の定義ではないけど内容を良く表していると感じる小林秀雄の講義の録音「信ずることと考えること」より抜粋して引用し直しておきます。

・・・信じるってことは責任をとることです 僕は間違って信じるかもしれませんよ 万人のごとく考えないんだからね僕は 僕流に考えるんですから勿論僕は間違います でも責任はとります それが信ずることなんです だから信ずるという力を失うと、人間は責任をとらなくなるんです  そうすると人間は、集団的になるんです 会がほしくなるんです・・・(中略)・・・自分流に信じないからイデオロギーってもんが幅をきかせるんです だからイデオロギーは匿名ですよ常に 責任をとりませんよ・・・

小林秀雄の映像とかがあれば面白いと思うのですが、なかなか見つけられません。

上記の様な音源をアップしたものは検索すると見つけられますが、たぶんチョサッケンがどうのこうののアレだと思うので、リンクはしないでおきます。

ちがうやつですが、キャプチャーだけ拝借しときます。

しかし、このおっさんの言うことは、いちいち面白いです。的を得てます。

文章で読むのも面白いけど、喋ってるのを聴くのは生々しくてさらに面白い気がします。

さっき気づいたんですが、小林秀雄は白須次郎と同い年なんですね。

孤高の巨匠

ハイドシェック 2011 日本ツアーのタイトルは「孤高の巨匠」となっているのですが、パッと見一寸大げさかなとも思えるフレーズなんですが、噛めば噛むほど味があってこれ以上のフレーズもなかなか浮かばないなと思えてくるわけです。

ボクが「孤高」という言葉と出会ったのは新田次郎の「孤高の人」が最初で、小学校1年のときから山好きの父に連れられ穂高などに登ったり、新田次郎の山岳小説もほとんど家にあったので、小〜中学校の頃にはそれもほとんど読んでいたのですが、その中で唯一、いまだに主人公の名前まで覚えているのがこの「孤高の人」です。

あらためて「孤高」の意味を調べてみると、

・・・ある種の信念や美学に基づいて、集団に属さず他者と離れることで必要以上の苦労を1人で負うような人の中長期的な行動とその様態の全般を指す。・・・私利私欲を求めず他者と妥協することなく「名誉」や「誇り」といったものを重視する・・・迎合主義の対極に位置する。

( 参照:Wikipedia )

ということで、外から見た結果論的な書き方ではあるものの、まさにという感じなんですが、迎合主義をそれとは感じないまま迎合している状態(=大衆、群衆)から見ると、

協調性を欠いた独自の態度を軽く批判する場合にも用いられる (同上)

ということにもなっちゃうんですよね。

この〔受け入れる側〕というのがかなり面白いもので、例えば時代によっても、バッハでさえメンデルスゾーンに再評価されるまで忘れられていた時期があったり、ブグローなんてボクが習った頃の美術の教科書には載ってなかったと思います。

ブグローは当時は非常に有名で地位や経歴も巨匠と呼ばれるに相応しい画家でしたが、その後に続く印象派(ルノワールやセザンヌ)に好意的ではなく、印象派から見ても古典は“つまらない”とか”月並み”というまったくくだらない理由で、印象派の時代になると、ともすると蔑視すらされるようにして忘れ去られたのではないかと思いますし、この流れはいまだに受け継がれている部分も多く、したり顔で印象派を絶対視する「ちょっと知識のある人」たちもまだたくさんいる様な気もします。

ターニャさんが、「日本の人は、どうしてオペラ座(ガルニエ)の話になると、シャガールの天井画のことしか言わないの?」と言っていたのを思い出します。

こういう話になるとまたネガティブな方向に進みがちなのですが、この「孤高」をキーワードにすると、不思議なことに、例のヴィヨンの詩が読めてくることに気づきました。

元旦の日記の3日後くらいに、電話しても留守だと言って実はまた手紙をもらったんですが(笑)、またあのチャーミングな絵が再び手元に届き、今年のテーマも再び「ヴィヨン」で決定かという雰囲気なんですが(笑)、

例えば、あの詩の中の ”イギリス人の火刑に処される「ジャンヌ・ダルク」”を詠む”囚われの死刑囚「ヴィヨン」”を”曲にして演奏する「ハイドシェック」”を【孤高】というキーワードでもって見事に貫けるわけです。

この気付きはイマジンさんのライターさんのおかげなんですが(笑)、タイミングとしてやっぱり何か大きな力を感じずにはいられない今年の幕開けです。

「野生」が「野生」という言葉を持たないように、「孤高」である人は「孤高」であるという意識を持たないと思うので、それはそれを感じる人が感じるものだと思うのですが、ハイドシェックのコンサートのパンフレットやCDのライナーには「孤高」という言葉は使わないにしても、その特徴をうまく表現した文章がよくあって、ハイドシェックの詩的な楽曲の解説と併せてひとまとめにできる機会があれば良いなと常々思うのですが、それはさておき、

テイチク盤の「フォーレ・リサイタル」のライナーの文章が、それを書かれた玉木正之さんのホームページでそのまま読むことができるので、参照させていただきます。→こちら

ボクもこのCDを聴いたとき、フォーレなんてひとつも分からないくせにこの独特の世界に引き込まれて、勢い余って後日この録音会場の教会の前まで案内してもらう結果になったのですが、

この玉木さんのライナーも、いちいち頷きながら楽しませていただいたのを覚えています。

内容もそうですが、

〜〜〜“幻のピアニスト”だかなんだか知らないが、“ふつうのピアニスト”然とした風貌のジャケット写真を見て、困り果ててしまった。どんな感想をいえばいいの か・・・。ところが、ぼくはピアノの演奏の善し悪しがまったくわからないので・・・といった予定稿ともいうべき感想を口にしながらディスクをプレイヤーに かけた瞬間、そんな困惑は跡形もなく吹き飛んでしまった。〜〜〜

という玉木さんの立ち位置にもすごく共感するものがあって、今更ながら、この文章はぜひお勧めです。

で、どんどんこの日記の着地点を見失って行くのですが(笑)、

「孤高」は迎合主義、すなわち、時代やジャンルを輪切りにした断面の中心〔最大公約数〕とは対極にあって、しかしながら、時代やジャンルを超越した同種の〔個の人生の結晶〕を貫く〔最小公倍数〕として捉えることが出来るのではないか・・・という、えらく漠然としたところで一旦着地して、今年もまたグダグダな感じで始まっておきたいと思います。

もうこの時点でここまで読んでる人はいないと思いますが(笑)、新年早々、やっぱり〔最大公約数〕側には行けないというギブ・アップ宣言の日記でした。

ということで、今年もやっぱり貧乏なんだと思います。

あーあ。