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ぴあ・ぴあ

「ぴあ・ぴあ」とは、青柳いづみ子さんの「ピアニストが見たピアニスト」ご自身による略称なんですが、久しぶりにハイドシェックの項を読み返してみました。

実は、この本は、出版されてすぐくらいのタイミングで例の別荘ツアーに行くためにパリの自宅に行ったとき、「ほら!これ!」といってハイドシェックから「日本語だから自分では読めん…」と言って手渡され、その後の別荘ツアーに携行して優雅に読書したんですが、読み終わって「どう?」と訊かれて、そのあまりにも赤裸々な内容に答えに窮し、帰国後すぐに青柳さんに事情を説明しながら「なんというか、その…」と手紙を書いた微妙な思い出があります。

そんな印象的な想い出にもかかわらず、記憶力の悪さが幸いして何度読んでも新鮮な発見があって嬉しいのですが(笑)、例の「ウィーンの謝肉祭…」は、実はハイドシェックが’57年にシャンゼリゼ劇場で初のソロ・リサイタルを開いたときの演目に含まれていたことがわかりました。

なんか、いろいろと考えるところもあるのですが上手くまとまらないので、青柳さんがこの本の中で引用されているトリビューンの批評記事とデュバルの本からの抜粋を孫引きしておきたいと思います。

これらのソナタの演奏のむすびつきを強めているのは、最大限の厳格さとアプローチの大いなる自由さの融合である。パラドックスか?いや、断じて違う。すべての瞬間において深く考え抜かれた構造が聴衆に提示されるが、同時にすべての瞬間において、それらが声高に叫ばれることは無いだろう。言いかえれば、このとき芸術は最も完成している。なぜならそれは完璧に音楽的なマニエラをもって満たされているからだ。そして、この偉大な形式の強く絶対的なコンセプトの中に、瞬間が命じる表現豊かな身振りと感受性や想像力にインスパイアされた躍動を自発的に表現する自由があるのだ。」(A.ヴァイス)

‘79.11 トリビューン紙  ハイドシェックのジュネーブでのベートーヴェン全曲演奏会の『ワルトシュタイン』や『op.109』の批評記事

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現代の演奏は、十九世紀後半の自己耽溺への反動で、作曲家の楽譜を神聖視する。現代の画一的な世界では、より学術的な視点が中心である。楽譜の文字面を信じ、それはしばしば作曲家への尊敬になった。この姿勢と完璧な録音は、音楽の解釈を単一化することになり、無感動の元になった。これは音楽の生命を脅かし、多くの若い演奏家たちを音楽の心から切り離した(小藤隆志訳)

デュバル『ホロヴィッツの夕べ』より


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ありがとうございます!↑ 予想外にいい感じです(笑)