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縄文〜弥生 と犬

縄文時代の遺跡からは犬は埋葬されたかたちで出土しますが、弥生時代の遺跡からは食べカスとして出土するそうです。

犬を飼った人ならわかると思いますが、同じ人間がこの様に変化するとは時系列が逆ならともかくなかなか考えにくいので、縄文時代から弥生時代は同じ文化が発展して変化したものではなく、他の文化との間で淘汰が起きたと考えます。

ただ、幸いなことにというか、その後の日本の歴史で犬食は近隣諸国などに比べても定着しなかった様ですので、弥生時代の例は進化/淘汰の過程で一時的に極端に現れた例なのかもしれませんが。

弥生時代というのは、紀元前300年頃から紀元300年頃までのことをいうのだそうですが、卑弥呼は〜248年頃と考えられているそうなので、ちょうどこの時代に重なります。

卑弥呼がいた邪馬台国の敵対国として、同じ日本の中に「狗奴国」というのがあったそうなのですが、この頃の詳細はなかなか明らかになりませんが、この「狗奴国」という名称がお気に入りです。

狗は犬の意味なので(笑)

この頃はまだ日本はひとつの国として統一されていたわけではなかったので、上記を考えると、これは縄文時代からの生き残り(土着民、ネイティブ・ジャパニーズ)の一部だったのではないかと考えます。

この弥生時代と前後して、たとえば、所変わって古代ギリシアには犬儒学派と呼ばれる思想を持った人たちがいた様ですが、無為自然で犬の様な生活を送ることを善しとした人たちだったそうです。

東洋でも似た様な話を聞いたことがあると思ったのが荘子なのですが、犬儒学派のディオゲネスが紀元前412年?〜紀元前323年、荘子が紀元前369年〜紀元前286年の頃の人だと推定されている様で、おおよそですがこの弥生時代に重なりそうな年代だということがわかります。(犬儒学派の儒に「儒学」の意味は無く、この日本語が出来た当時の「哲学」とか「学問」とかくらいの意味にすぎないと考えます。ボクの中では儒はマキャベリ的アレの性格が強いと思われるので蛇足の説明を付け加えておきます。)

なので、少し強引ですが、内容的には当たらずとも遠からずな感じで、この様な進化/淘汰はひょっとしたら世界的にもほぼ同じ様なタイミングで進行していたのかもしれないな…などと思ってしまいます。

先日からぐだぐだ言っているマキャベリ的知性仮説という名称は今ひとつ核心を突いていないのでわかり難いのですが、要は、権謀術数(権力・謀略・術策・計算)の能力が社会的な適応能力(進化/淘汰)に大きな影響を与えたとする説です。

歴史を振り返るという作業において、自分の立ち位置はこの進化/淘汰の過程の末端にいるわけで、自分が今ここにいるということはそれまでにこの様な適応を繰り返した結果だということを考えると慄然とせざるを得ないのですが、それを背負って生まれてきたことを無視することは出来ないのが、人間の「業」というものなのでしょうか。

飛騨と縄文人と蝦夷

前項の続きです。思考が(笑)

ミトコンドリア遺伝子の調査で、飛騨人は日本の一般的な割合よりも(アイヌ人や琉球人の様に)縄文人に近いという結果を踏まえて、縄文人への憧憬を込めていろいろと調べながら妄想を楽しんでいます。

関連する書籍やインターネットのサイトや、果ては「もののけ姫」のDVDまで買って見てます(笑)

もののけ姫、こんな見方をしてもしっかりと辻褄が合うのがさすが宮崎駿、すごいですね。

今はなき神岡鉄道の「神岡鉱山前駅(国鉄時代の神岡口駅)」から見る神岡鉱山の情景が、もののけ姫に出て来る「タタラ場」を彷彿とするというのをインターネット上で複数目にしたのですが、あながちそう言えなくもないと思いつつ、見た目だけでなくこの辺り一帯の古い呼び名である「高原郷」は、タタラ郷の変形かもしれない?とか、いろいろ妄想してしまいます。(明治初期には上高原郷から転じて上宝村となったりしているので、言葉の音だけが残っている可能性も無きにしも非ず…という様な。)

また、地名の由来としては、Wikipediaの「ヒナモリ」「比奈守神社」の項を引き算すると、飛騨=夷(ひな)の変形ととれなくもなく、律令制の中でも「下国」として格付けされ、大和朝廷の中央集権体制に望むと望まざるに関わらず”取り残された”と考えても不思議は無い様な気もします。

この律令時代には、

飛驒は当時辺境地帯を除けば最も過疎地域であったため税制上の特例が認められた。すなわち、庸・調を免除されるかわり大工(飛騨工)が徴発された。(Wikipedia:飛騨国より)

のだそうで、これが飛騨の匠と呼ばれる人々の発祥につながっている様ですが、過酷な労働条件に途中で逃げ出す飛騨工を取り締まるために出された触書きの中で、弘仁元年の太政官符というものには「飛騨の民は言語容貌既に他国に異なり」・・・飛騨の人はしゃべる言葉や風貌が他国の者とは違っているので(容易に見つけられるからかくまわず差し出せ)という様なものがあるそうです。

うーむ。

こんなことを考えつつふと思いついたのですが、考えてみれば、飛騨に伝わる「イチイ一刀彫」とアイヌの木彫り・・・熊や人形など、ひと昔前の北海道土産の定番だったアイヌの木彫りも、イチイ(アイヌ語でオンコ)を材料として一刀彫の荒々しい痕跡を特徴としているところが良く似ている気もします。
(ざっと検索した限りでは、こんな説はどこにも見当たらないのですが(笑))

などなど。

ボクの脳内では、これらを辺縁系と新皮質とかヴィヨン(中世の秋)とかマキャベリ的進化論などとどうしても結びつけて考えたくなる様なので、しばらくはまたグダグダしてそうです(笑)

まつろわぬ

今日はNさん主催のコンサートのお手伝いに行ってきました。

お伽歌劇「ドンブラコ」

このコンサートに心血を注ぐNさんにはたいへん申し訳のない関心と働き、そして以下のブログなのですが…

いつものグダグダですので、あしからず。。。

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今日は「海の日」で、海水浴にはもってこいな感じの、真夏の様にギラギラと暑い日でした。

先日、東北〜北海道に旅行をしたのですが、実は、数年前にハイドシェックのコンサートで札幌に行った以外は、東北〜北海道に行くのは生まれてはじめてのことでした。

けんも一緒に行ったので、車で休み休み、道々その景色や空気、距離感なども肌で感じることが出来たのですが、「蝦夷」という未知なるものと出会うことにもなり、いや、今は既にほとんどその痕跡しか残っていないのですが、なんだかとても気になって、帰って来てからいろいろと調べてみたりしています。

例によって、それ関連の本も何冊か求めて読んでいる最中なのですが、今日はその中で梅原猛の「日本の深層」という本を、少し時間の空いたときにでも読もうともって行っていました。

リハーサルが始まって、雑用も一段落したので舞台の袖でこの本を読んでいたのですが、「アイヌ文化と縄文文化」という段落を読んでいるときに。ステージからは「熊祭りの夜」(イヨマンテの夜)が聴こえてきていて、何とも不思議な感覚でした。

そうこうしているうちに本番が始まり、後半戦はステージを見下ろせる場所からしばしコンサートの様子を眺めていたのですが、本日のメインディッシュ「ドンブラコ」の筋もある程度じっくりと鑑賞させていただくことが出来ました。

いわずとしれた「桃太郎」のストーリーなのですが、歌劇として作曲された当時の軍国主義的な味付けも相まって、タイミング的に妙なところでいろいろと考えてしまいました。(たとえば→古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。Wiki「桃太郎」より

で、帰って来てからたまたま「海の日」について調べてみると、海水浴の日だとばかり思っていたのが、実はその成り立ちはぜんぜん違っていて、

海の記念日は、1876年(明治9年)、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ、1941年(昭和16年)に逓信大臣村田省蔵の提唱により制定された。(Wiki「海の日」より)

のだそうで、日記の前の項目とも少し絡みますが、明治維新(1867〜8)→戊辰戦争(1868〜9)→廃藩置県(1871)→明治天皇の東北地方巡幸(1876)と続いています。

なので、海の日に桃太郎とは、誠にもってうってつけの日となる訳です。

が…

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ぜんぜん関係ないのですが、先日、蝦夷とか縄文人を考えながらいろいろ調べている間に、数年前のこんな記事を発見しました。↓

「飛騨びとのルーツ」共同研究 縄文人説、DNAで迫る

記事中の数字はソースによってまちまちなのですが、飛騨(ボクの出身地)人はどうも日本の平均的な数値よりも弥生系より縄文人的遺伝子が濃い様です。

この辺りが、先日の東北〜北海道旅行で妙にいろいろ考えてしまった原因なのでしょうか?

ということで、常々感じる「まつろわぬ」気質は、どうやらこの辺りに原因があるのかも・・・という中間報告になってしまいました(笑)