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と思ったけど、

前の日記の続きです。

今年ハイドシェックから貰った「お題」として、フランス革命を裏側から眺めてみようという試みのために、バークの「フランス革命の省察」を注文したけれど、ついでにバークはどんな人かと思って著書を見てたら「崇高と美の観念の起原」という面白そうな本が有ったのでまずそっちから読もうという様なお話なんですけど、まず助走をつけるのに松岡正剛のバークの項を読んでいたら、その追記で”日本で唯一のバーク論”と絶賛(?)されている桑島秀樹の『崇高の美学』という本があるのを知って、回り道するついでにさらに道草をくってみたくなって、またしても不良在庫が増えたのでした。

いま、ブログを書く手を休めてしばらくぼーっと考えていたのですが、昨年から今年にかけては厄年が重なっていたこともあって、読んだ本といえばドストエフスキーとかニーチェとかオーウェルとか、人間や社会の醜さをこれでもかというほど直視した様な物ばかりで、この「フランス革命の省察」にしてもボクの中ではその辺りが発生源となっている気がするのですが、出来事としてもどうでもいいけどそのまま目を逸らすのも忍びない様なのが次々とあって(たとえば”伝説”の”鬼神が乗り移った”本当の理由を何となく推測出来る様な事柄を垣間見たりとか)同時にニーチェの「蓄群」に対する激しい怒りを想像出来たりしていつの間にかその内にどっぷり浸かってしまっていた気がします。

大晦日か節分までか知らないですけど厄年も終わるし、ベートーヴェンの後期の様に「崇高」と「美」の世界にたどり着きたいという、これはその願望の現れかもしれないなぁ。と。

(ボク目線の)ハイドシェック2011のまとめの糸口

ハイドシェックの2011年の日本ツアーも無事終わりました。

本来ならば4月にある予定だった日本公演でしたが、3月の震災の影響で11月に延期になりました。

その間、ハイドシェックはフランス国内外で日本のためのチャリティーコンサートなどを開いてくれていて、その様子を手紙で知らせてくれていたり、電話でもまず「日本はどう?」という具合で、日本の様子をすごく心配してくれていました。

なので…というわけでは決してありませんが、今回コンサートを聴きに行ったときには、演奏の出来不出来とか、アンコールをいっぱいやってくれて得したとか、そんなことを感じるにはとてもおこがましくて、ただただ、再び生のハイドシェックを聴くことが出来た喜びに、いつもに増して全身で浸ることが出来たのでした。

前回2009年の日本ツアーのときにもらった宿題(笑)の、フランソワ・ヴィヨンの詩「La Ballade des Dammes du temps jadis」による自作曲も、今回のツアーでは正式な演目となって演奏された様で、その日のコンサートに行けなかったのがとても悔やまれるのですが、その曲の背景については2年前からもちゃもちゃと自分なりに捏ね繰り回して現在に至っています。

その経験を生かしつつ(笑)、
今回のコンサートに先立って、ハイドシェックの新譜が2枚発表されたのですが、たまたまこの2枚の共通項として「フランス革命」があります。

フランス革命と聞くと、ハイドシェックと出会って以降はモーツァルトと切っても切り離せないのですが、日が経つにつれそれは意義的にもシンクロしてきていて、フランス革命の一般的なイメージ・・・『民衆が自らの手で「自由」「平等」「博愛」を勝ち取った』というイメージは、『モーツァルトは癒しと安らぎの音楽』と同じくらいに胡散臭いという思いが強くなって困るのですが、今年我々が経験した出来事・・・震災と原発事故のその後現在も進行中の様々な対応や、もうすっかり忘れ去られましたがDiorのガリアーノの解任劇などを目の当たりにして、ますますそれは確信せざるを得なくなったというか。

モーツァルトもフランス革命も、そして、ハイドシェックのキラキラと輝いたり変幻自在の色鮮やかな音を引き立たせる極めつけの理由・・・それは、背景の『黒』です。知らんけど(笑)

で、いつものごとく、ストレスがたまるとamazonから本が届くというあれで(笑)、読もうと思って買ったけど読んでない本のコーナーが山盛りになって困っているのですが、本日またまた追加です。

「フランス革命の省察」は、革命のリアルタイムでイギリス人のバーグが書いたその批判の書です。

バーグはどんな人かと思ってアマゾンでその著書をクリックして出てきたのが「崇高と美の観念の起原」で、これはひょっとしたらそのタイトル通りの位置づけの本なのではないかと、パラパラと飛ばし読みしながらにやけているところです。

今年のツアーのチラシのキャッチフレーズだった「孤高の巨匠」にも通じる気もします。

背景『黒』の説明もありそうな気がします。

そしてそれは、きっとヴィヨンの詩の通奏低音とも共鳴している予感がしています。

なので、まず「崇高と美の観念の起原」の方から読もうと思います。

そして、この「フランス革命の省察」と同様、社会的に大きな出来事を経験しながら、その当事者たちはその意味には気付きもしないで依然として目先の些事にとらわれているところが、外から見る人には実に異様に映っているのかもしれない・・・と思ってしまうのもまた、今年のツアーとシンクロしてしまうのでした。

まぁ、昨今は世界規模で異様さが顕著ですけど(笑)

ともあれ、ターニャさんの結婚前の名前がマリー・アントワネットだったことを差し引いても、ハイドシェックが以前アントワネットやルイ16世を擁護する発言を耳にしたことがあるし、新譜の2枚に限らずハイドシェックの自作曲や演奏の解釈がまた数倍楽しくなりそうです。

年末年始はゆっくり読書でもする時間があります様に!

無常といふ事

今思えば、ヴィヨンの「去年の雪、今何処」の詩を読み解く手掛かりとして、小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』を読んだ(まだ途中だけど)ことは、結果としては奇跡的に大正解だった様な気がします。

この本のタイトルが「去年の雪、今何処」であったとしてもおかしくないというか、ヴィヨンの視線と小林秀雄の視線が重なって見えてきます。

…或る考えが突然浮かび、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処へ行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

(「無常という事」より抜粋)

こんな風に書いていた小林秀雄も今はとうに後者に当てはまるのですが、”まさに人間の形をしている”というか(笑)
鑑賞に値します(笑)

これら(この本は短編集なので)が書かれた時代の空気を垣間見たいと思っていたら、ヤフオクで当時の「文學界」が超格安で出ていたので落札してみました。

昭和十七年六月號(笑)

大戦の真っ只中であり、内容も直接あるいはその反動的にそれ一色でもおかしくない頃の本ですが、青山二郎による装丁をはじめ、一面の緊迫ムードという風でもない感じです。

↓こんな広告とか(笑)

当時は歯を食いしばった日本男児しかいないのかと思えば、意外と日本男子的な(笑)

ずいぶん洒落(戯れ)っぽいです。

・・・

寝る前に数ページずつ、行きつ戻りつ妄想しつつ読んでいる(「モオツァルト・無常という事」)のでいつ読み終わるか分かりませんが、この古本もいずれ読む機会があれば・・・