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無常といふ事

今思えば、ヴィヨンの「去年の雪、今何処」の詩を読み解く手掛かりとして、小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』を読んだ(まだ途中だけど)ことは、結果としては奇跡的に大正解だった様な気がします。

この本のタイトルが「去年の雪、今何処」であったとしてもおかしくないというか、ヴィヨンの視線と小林秀雄の視線が重なって見えてきます。

…或る考えが突然浮かび、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処へ行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

(「無常という事」より抜粋)

こんな風に書いていた小林秀雄も今はとうに後者に当てはまるのですが、”まさに人間の形をしている”というか(笑)
鑑賞に値します(笑)

これら(この本は短編集なので)が書かれた時代の空気を垣間見たいと思っていたら、ヤフオクで当時の「文學界」が超格安で出ていたので落札してみました。

昭和十七年六月號(笑)

大戦の真っ只中であり、内容も直接あるいはその反動的にそれ一色でもおかしくない頃の本ですが、青山二郎による装丁をはじめ、一面の緊迫ムードという風でもない感じです。

↓こんな広告とか(笑)

当時は歯を食いしばった日本男児しかいないのかと思えば、意外と日本男子的な(笑)

ずいぶん洒落(戯れ)っぽいです。

・・・

寝る前に数ページずつ、行きつ戻りつ妄想しつつ読んでいる(「モオツァルト・無常という事」)のでいつ読み終わるか分かりませんが、この古本もいずれ読む機会があれば・・・

モオツァルト 再び

どうも思考があっちこっち飛びまわったままでマズいです(笑)

最近、ハイドシェックのモーツァルトの協奏曲を聴きながら仕事をすることが多いのですが、とくにここ数日は、バイトブリックのケーゲルのやつ(22番)ばっかりヘビー・ローテーションで聴いています。

カップリングの交響曲(40番)も同時に聴くことになる訳で、交響曲はぜんぜん聴かないのでCD自体ほとんど持っていないのですが、

で、それと、小林秀雄のモオツァルトを再び買ってきて読んでいます。

小林秀雄が「・・・乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていたとき、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。・・・」と書いている横に楽譜の一部分が載っているのですが、ここの部分は前に読んだときから頭に残ってた部分だったので、楽譜は読めないけど何となく気になって追いかけてみると、これは40番の4楽章のテーマなんですね。


↑なんか、珍しいものがあったので拝借しますw

またしても、自分の中では不思議なタイミングの邂逅を感じています。

で、こういう不思議なタイミングの一致は、ヴィヨンのことを調べているときによくあったことなんですけど、ここでまた、やっぱりかという感じでヴィヨンが登場しました(笑)

『モオツァルト』は『モオツァルト・無常という事』というタイトルの短編集の文庫本で読んでいるのですが、そのいちばん始めに『モオツァルト』があり、その次の『当麻』というタイトルの、世阿弥の能について書いてある短い文章の締めくくりが、

ああ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。

で終わっているのを発見してしまいました。

出た(笑)

もともと、小林秀雄のモオツァルトを読んだのは、ヴィヨンの「去年の雪」の詩についてあれこれ調べていた”ついでに”という感じだったのですが、まさにそのすぐ傍にそのまんまの形であったんですね〜。

いや、でも、当初からこれを発見していたら「・・・いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。」という言葉にまんまと引っかかっていたのかもしれません。

しかし、ここでのヴィヨンの用いられ方はとても「当たり前」な感じ(共通認識というか、一般教養としてこの詩を知っていて当たり前という雰囲気)なんですが、「仏文科」のステータスも地に堕ちて、「去年の雪」自体が「去年の雪」になりつつあるという立体的なルフラン(リフレイン)をまざまざと味わっている様な気分にもなります。

もともとこの本と出会ったときの「疾走する悲しみ」が失踪する悲しみ という残念な語呂合わせがまた頭を埋めます。

最大の救いは、4月になれば、ハイドシェックを聴きに行けることです(笑)

「孤高」の補足

先日の「孤高の巨匠」というタイトルの日記の中で引用した「孤高」の定義が、どうもよそよそしい感じで今ひとつ腑に落ちないので、言葉の定義ではないけど内容を良く表していると感じる小林秀雄の講義の録音「信ずることと考えること」より抜粋して引用し直しておきます。

・・・信じるってことは責任をとることです 僕は間違って信じるかもしれませんよ 万人のごとく考えないんだからね僕は 僕流に考えるんですから勿論僕は間違います でも責任はとります それが信ずることなんです だから信ずるという力を失うと、人間は責任をとらなくなるんです  そうすると人間は、集団的になるんです 会がほしくなるんです・・・(中略)・・・自分流に信じないからイデオロギーってもんが幅をきかせるんです だからイデオロギーは匿名ですよ常に 責任をとりませんよ・・・

小林秀雄の映像とかがあれば面白いと思うのですが、なかなか見つけられません。

上記の様な音源をアップしたものは検索すると見つけられますが、たぶんチョサッケンがどうのこうののアレだと思うので、リンクはしないでおきます。

ちがうやつですが、キャプチャーだけ拝借しときます。

しかし、このおっさんの言うことは、いちいち面白いです。的を得てます。

文章で読むのも面白いけど、喋ってるのを聴くのは生々しくてさらに面白い気がします。

さっき気づいたんですが、小林秀雄は白須次郎と同い年なんですね。