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遊び(メモ)

先日も「遊びをせんとや生まれけむ」という日記を書いたんですけど、最近はテンパり過ぎてか、その界隈のことばかりを考えています。(現実逃避とも言う(笑))

先日の日記では、その後に続く「戯れ」について少し考えていたんですが、「遊び」という言葉は守備範囲がかなり広くてなかなかひと言で表すのが難しくてそのときは放置していました。

今も断片的なんですが、せっかく思考が現実逃避で暴走していつもはあまり考えない領域までグルグルしているので、またしても完璧に覚え書きです。

引き続き、完全放置の方向でよろしくお願いいたします。

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基本的には、「遊び」と例の「大脳辺縁系」を結びたいだけの話です。

・シラー「人は遊びの中で完全に人である」

・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」提唱←→「ホモ・サピエンス(知恵の人)」

・「遊びと人間」(カイヨワ→バタイユ界隈)

・そもそも「遊び」という言葉は、現在使われている意味においては、大航海時代〜産業革命以降(例の『古典』の時代以降)の「労働」に対する「余暇」や「余興」など「余りもの」的な意味合いの上に人工的に作られた言葉の様に用いられている気がしてならない。

・「労働」だけでなく、「合理的なもの」「普遍的なもの」に対しても同様

・「遊び」と「労働」(あるいは「合理」「普遍」)を並列とするパラダイム・シフトが必要(自分の日常も多分に含めて)

・「合理的なもの」「普遍的なもの」→『科学的思考』←→『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(レヴィ・ストロース)

・レヴィ・ストロース←ベルクソン(「具体」性)→小林秀雄

科学的思考というのは、思うに物質的な社会と直結していて、「物質的に豊か」と同じくらいの貧弱・脆弱さを感じる。
人類(いわゆるホモ・サピエンス)の歴史を1日に置き換えると、産業革命は3〜4分前、第二次世界大戦は1分前くらいの話で、それ以前の人類史は物質的思考では「未開の暗黒時代」というバカバカしい話。
心理学が発達したら鬱病患者が増えたとか、免疫学が発達したら花粉症が発生したとか、そっちにも通じる気がする。

「科学的論理的思考」=大脳新皮質に対して、「遊び」は大脳辺縁系<発>のはず(たぶん(笑))で、そっちを優位にしておいて大脳新皮質でそれをサポートする体制が出来たら新皮質も発達した甲斐があったというもの。

A10神経どうのこうのとか、現代では科学的にも証明できるんじゃなかろうか。

<追記>
そういえば、松岡正剛も『遊』

<追記>
人の行為の全てが人工的というのでなく、ここでいう新皮質発のものに限りそうであって、辺縁系発のものは自然なんじゃないか…という様な分け方は?
例、ゴッホは自然。ピカソは人工。

自然な人のことは、なかなか参照できる対象がないので、やっぱり遠野物語を読むべきか。
レヴィ・ストロースはせっかくそっちを見てるのだけど、それをわざわざ「科学的に」証明せんがための「構造主義」が、ボクの様なバカには逆に西洋主義的でウザく感じる。

たとえば、地上こそがこの世の中心でその周りを太陽や星が回っているというのと、宇宙の片隅の銀河系の片隅の太陽系の惑星のひとつ・・・というのでは、本質的にどちらが豊かかといえば、

(メモ)

テンパってくると無駄に思考が暴走して、じっくり考えたいけど焦っていて考えられないので、また取り留めのない覚え書きです。

ブログに書いておくと、あとで読み返して続きを考えたり、自分のことをバカバカバーカと思ったりできるので(笑)

いつもどうもすみません。完全放置の方向でよろしくお願いいたします(笑)

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最近、布袋さんのブログを読んでいて「(ライブのリハーサルで、古い)スタッフが感慨深く音を見つめています・・・」という様な表現があって、しかもかなり自然体な使い方で、とてもいい表現だなと思ったこと。

小林秀雄の講義の録音をいくつか聴いていて、ユリ・ゲラー(スプーン曲げとかやってたいかがわしいおっさん)について、「こういう念力みたいなものは、あるんですよ、昔から、当たり前に・・・」みたいなことを言っていたこと。

柳田國男 遠野物語の序文、「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」という言葉。

ミシェル・フーコー 「狂気の歴史」(西欧社会が伝統的に抑圧してきた狂気の創造的な力)

モーツァルトを聴いていて、哀しさを明るさで中和するのでなく、(哀しさで)包容すると感じたこと。(あらためてモオツァルトのスタンダールの言葉を思う)

あー、もう、箇条書きになってきた(笑)

↓上記の様な事柄を、「孤高」と「陰影礼賛」と例の「辺縁系」も絡ませつつ、こんな様な意味で括りたい・・・という様なこと

ついでに、

「愚管抄」と「愚菅首相」では、同じ「愚」でもひゃくまん光年くらい意味が違うという様なこと(笑)

どっちでもいいけど。

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今日は、なっちゃんの11歳の誕生日です。

久しぶりに太陽が顔を出しています。

ななみちゃんが帰って来ないのが寂しいですが、「ティファニーで朝食を」のホリーの住所が「旅行中」になっているのと似た様なものだということにしておいて、ハチ公の様に毎日ひたすら帰りを待ちたいと思います。

小林秀雄の脳を覗く 

先日の日記にも書きましたが、小林秀雄の脳を覗くという本、やっぱり予想通りの内容でとても良い本なのですが、リンク先のアマゾンのページにも簡単な説明書きしか無く、レビューもついていないという何とも不思議で残念な感じなので、目次を書いておくことにします。(ネット上にデータとして保存したいという意味ですので、ひき続き完全放置の方向でよろしくお願いいたします(笑))

小林秀雄の脳を覗く ?辺縁系的な生の批評家? 森崎信尋 近代文芸社

目次

プロローグ 私は何を書こうとしているのか

第一章 心の分析「(大脳)辺縁系的なもの」と「(大脳)新皮質的なもの」
二元論から一元論へ
マクリーンの三位一体脳
一般人の心と「辺縁系的なもの」
一般人の心と「新皮質的なもの」
「辺縁系的なもの」と「新皮質的なもの」の関係
※第一章の注

第二章 心と価値
実在
本物と贋物
ホメオスタシス
快と不快
金(財産)・権力・名誉
真・善・美・聖
真偽の世界
善悪の世界
美醜の世界
聖俗(濁)の世界
本物贋物再び

第三章
(1)直感
直感とは
直感の脳科学
小林の直感は視覚優位
小林の直感が特に明らかにする認識内容
(2)主観と客観
定義
批評行為
小林は確率と帰納嫌い
「辺縁系的なもの」の擁護
(3)心と言葉
言語の脳科学
小林と言葉
直感とは言葉を発見することと見つけたり
(4)宿命
宿命の生物学
そして小林の宿命論は
生の批評家

第四章
(1)ドストエフスキーと小林と私
(2)『「罪と罰」について I』
ラスコーリニコフ
犯行の偶然と必然
行く先が無い
空想
孤独感
孤独から愛へ(?)
美について
(3)『「罪と罰」について II』
小林のドフトエスキー体験と批評
「新皮質的なもの」から「辺縁系的なもの」への転化
人物の架空性、事件の架空性
予想と予測
自殺
「辺縁系的なもの」アラカルト
エピローグ

文献
著者略歴

やっぱり、この本を読んで何よりも嬉しいことは、この{「辺縁系的なもの」と「新皮質的なもの」}という『視点』です。

そもそも、ボクはなぜ「辺縁系」と「新皮質」という分け方に共感しているかというと、前にもちらっと書きましたが、なっちゃんやななみちゃんとボクら(人間)は、どっちが「優しいか?」とか、どっちが「物事の本質を見抜いているか?」(とか、逆に「なぜハイドシェクよりホロヴィッツの方が有名か?」(笑))とかいう辺りが発生源なのですが、脳の物理的な構造の違いとして、人間は他の動物に比べて「新皮質」が異常にデカいみたいなので、それって「エラい」の?という素朴な疑問がしばしば湧いてくるからです。

なので、実は、この本の中で「辺縁系的なもの」(辺縁系優位な脳の状態)の正体として、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフの強烈な虚無感や登場人物の自殺(や、小林秀雄本人の自殺未遂)などを例に、”どろどろした得体の知れないモノに支えられて〜”というところに進んでいくのはいささかアレで、それは「本来辺縁系優位であるはずのところを新皮質が抗っている(けど最終的には敵わないことも(新皮質が優秀なほど)分かってしまう)結果」の様な気がしてならないのですが、もうちょっと極端に言うと、道徳ホメオスタシス(体温や脈拍を一定に保ったりする自律神経の機能と同一)で、そこから派生する背徳は新皮質の為せるワザ…というところに着地したいのですが、脳科学的にロジックが成立して証明されるまでには、というか、一般論として受け入れられるのには、コペルニクスとかダーウィンのスパンで考えると順調にいってあと2〜300年くらいかかりそうな気もします(←知らんけど・笑)

関係ある様な無い様な話ですが、過去2000年間の世界人口のグラフを見ると、2〜300年後の世界って…微妙です…よね

この本を読むにあたって、このあいだテレビでちらっと見た、松岡正剛の”本をノートにする読み方”を見よう見まねで真似てみたり、目次を拾い出したのも若干その影響なのですが、これをきっかけに、去年のハイドシェックの大阪公演のアンコールに登場したフランソワ・ヴィヨンの詩以後のグダグダを、ハイドシェック・カテゴリーの下層に「関連?」カテゴリーとしてまとめてみました。

大阪公演の日記のヴィヨンの詩の翻訳者・・・彼をしてこの詩をフランスの詩歌の中でもっとも美しい一編と言わしめた・・・鈴木信太郎氏と小林秀雄、また、小林秀雄と松岡正剛の間にはそれぞれ実際に接点があった様で、それぞれ最大公約数的でないところが、なんか、良いラインだなと思います。